今思う魅力について
私の隣の学芸員さんは次に行われる展示会に向けて、
「今和次郎」という人の資料を集めたりと準備を進めている。
隣で勝手に資料を見て、私が今思うことを浅い理解なりに書こうと思う。
今和次郎は、考古学の逆、考現学を提唱した人。(弘前出身)
現代(当時)の建築、生活様式、ファッション、食事、茶碗の割れ方(!)、髪の分け方(!)、、、
約に立つかわからないものまで、なんでもかんでも調べて記録したようです。
同時代、もうひとつの有名な運動がありました。
柳宗悦の民藝運動です。
民衆の生活から生まれる手仕事の日用品の中に「用の美」を見出し、
各地方から発掘し、世に広める運動です。
どちらも民衆にスポット当てた少し近い考えのようですが、
私は考現学に、「用の美」だけではない、そう、美しいだけではない、
生活から生まれるあらゆる工夫に対する愛情のまなざしを感じます。
そこに、おこがましくも、
私がここ数年感じてきたデザインに対する考え方と共通するものがあると感じたのでした。
その、美しいだけではない魅力とはなんなのか?
そのヒントがあるような気がするのです。
そして、もうひとつ、近いと感じる思想があります。
数年前に深澤直人さんとジャスパーモリソンさんが提唱したスーパーノーマルです。
※以下、深澤さんの解説文の一部です。
「スーパーノーマル」はむしろデザインされた美しいものというよりも、一見みのがしてしまいそうな、しかし、生活の中で無視できない要素をそなえたもの。 「かっこいい」とは称せないもの。むしろ「ださい」と思えてしまうようなものでも、何か魅力があるというものなのではないかと思います。新しいデザインを 期待してそのものを見たときに、「え~、これぜんぜんふつうじゃん」とか「これちょーふつうじゃない」とかいうような、ネガティブな印象が、そう言ってい るそばから変わって、「いいかも」というふうになる。気持ちは否定から入ったのに、それとは反対にからだのセンサーがその魅力を今まで知っていたかのよう に立ち上がって、その魅力に取り込まれていく。掘り起こされてはっと我にかえるような感覚を持ったものが「スーパーノーマル」なのです。
私たちはスーパーノーマルだと思えるものがいったい何であるかを探してみたいのです。集めてみたいという興味があるのです。「ださい」と思っていたものの中にあった魅力を再認識する喜びを一緒に味わいたいのです。
私たちはこれが「『スーパーノーマル』な製品です」というふうな、製品にデザイン賞のラベルをはるようなことをしようとしているのではありません。無視で きない魅力。デザインというスペシャルを求めていた自分が、はっと我にかえるような気付きと驚きを共に味わうことによって、自分たちが大切にしてきた何か を再認識し、今、はまり込んでしまっているデザインパラダイムから抜け出そうとしているのかもしれません。今のデザインは「スペシャル」をつくろうとして しまっています。人々はデザインと聞いてスペシャルを期待するのがあたりまえだと思っています。その際、作り手と受け手は一見合致されているようにも思え ますが、実は双方が生活とかけ離れた夢遊の中にいるのです。自分の気持ちに正直になれば「スーパーノーマル」は理解できるし、見えてくるのです。
深澤直人
当時の馬鹿正直な私には、ビビビッ、ズドンッ!ときました。
もともと普通が好きだった私は、さらに普通を積極的に好きになり、
スーパーノーマルなものへのアンテナもビンッとなりました。
しかし、当時、スペシャルなものをつくるデザイナーにとっては賛否両論で、
普通について考える良い機会となったようです。
このスーパーノーマルを誤解してしまうのはとても危険です。
白い四角でいいんだ、丸でいいんだ、このフォントを使えば間違いないんだ、装飾無しがいいんだ、、、
そうではないのです。
スーパーノーマルの中には、
装飾があるものもありますし、ある意味スペシャルを目指したものもあります。
もちろん、これでいいんだ、という妥協的な考えはもってのほかで、
○○のために、○○なものを作る!という、熱い気持ちが最低限必要です。
そう。
結局、なんだかんだいって最後は気持ちかい!といわれそうですが、、、、最後は気持ちだい!
スペシャルがだめなのでもなく、装飾がだめなのでもない、
だめなのは、押し付けがましさや、自慢げないやらしさ。
デザイナーズナントカ、デザインしました!みたいなデザイン。
この難しい技術に、さらにあの技術ドン!みたいなデザイン。
ナントカ機能にナンチャラ機能あり!みたいなデザイン。
このいやらしさを人は敏感に感じているのだと思う。
「用の美」というのは、きっと、このいやらしさのない、純粋さなんじゃないか。
その人がその環境で考えて作った、より良く生きるための工夫。
そう、美しくなくても、見えてくる純粋なやさしい気持ちや楽しい気持ち、
その人間らしさに愛情を込めて考現学は調べて記録したのかな。
「純粋さ」が美しさやそれ以外も含めての魅力なんじゃないか。
それをデザインしたい。しかし、それを狙うというのは不純でいやらしい。。
そのためには、○○のために○○なものを作る!!というやらしさの入るスキの無い熱い気持ち。
最後は気持ちだい!
ダラダラと雑な文章をここまで読んでくれたかた、
ありがとうございます。
今日、隣の学芸員さんとお話して、考現学、民藝、スーパーノーマル、と、
3つの考え方に共通する魅力について思ったことの記録でした。
「今和次郎」という人の資料を集めたりと準備を進めている。
隣で勝手に資料を見て、私が今思うことを浅い理解なりに書こうと思う。
今和次郎は、考古学の逆、考現学を提唱した人。(弘前出身)
現代(当時)の建築、生活様式、ファッション、食事、茶碗の割れ方(!)、髪の分け方(!)、、、
約に立つかわからないものまで、なんでもかんでも調べて記録したようです。
同時代、もうひとつの有名な運動がありました。
柳宗悦の民藝運動です。
民衆の生活から生まれる手仕事の日用品の中に「用の美」を見出し、
各地方から発掘し、世に広める運動です。
どちらも民衆にスポット当てた少し近い考えのようですが、
私は考現学に、「用の美」だけではない、そう、美しいだけではない、
生活から生まれるあらゆる工夫に対する愛情のまなざしを感じます。
そこに、おこがましくも、
私がここ数年感じてきたデザインに対する考え方と共通するものがあると感じたのでした。
その、美しいだけではない魅力とはなんなのか?
そのヒントがあるような気がするのです。
そして、もうひとつ、近いと感じる思想があります。
数年前に深澤直人さんとジャスパーモリソンさんが提唱したスーパーノーマルです。
※以下、深澤さんの解説文の一部です。
「スーパーノーマル」はむしろデザインされた美しいものというよりも、一見みのがしてしまいそうな、しかし、生活の中で無視できない要素をそなえたもの。 「かっこいい」とは称せないもの。むしろ「ださい」と思えてしまうようなものでも、何か魅力があるというものなのではないかと思います。新しいデザインを 期待してそのものを見たときに、「え~、これぜんぜんふつうじゃん」とか「これちょーふつうじゃない」とかいうような、ネガティブな印象が、そう言ってい るそばから変わって、「いいかも」というふうになる。気持ちは否定から入ったのに、それとは反対にからだのセンサーがその魅力を今まで知っていたかのよう に立ち上がって、その魅力に取り込まれていく。掘り起こされてはっと我にかえるような感覚を持ったものが「スーパーノーマル」なのです。
私たちはスーパーノーマルだと思えるものがいったい何であるかを探してみたいのです。集めてみたいという興味があるのです。「ださい」と思っていたものの中にあった魅力を再認識する喜びを一緒に味わいたいのです。
私たちはこれが「『スーパーノーマル』な製品です」というふうな、製品にデザイン賞のラベルをはるようなことをしようとしているのではありません。無視で きない魅力。デザインというスペシャルを求めていた自分が、はっと我にかえるような気付きと驚きを共に味わうことによって、自分たちが大切にしてきた何か を再認識し、今、はまり込んでしまっているデザインパラダイムから抜け出そうとしているのかもしれません。今のデザインは「スペシャル」をつくろうとして しまっています。人々はデザインと聞いてスペシャルを期待するのがあたりまえだと思っています。その際、作り手と受け手は一見合致されているようにも思え ますが、実は双方が生活とかけ離れた夢遊の中にいるのです。自分の気持ちに正直になれば「スーパーノーマル」は理解できるし、見えてくるのです。
深澤直人
当時の馬鹿正直な私には、ビビビッ、ズドンッ!ときました。
もともと普通が好きだった私は、さらに普通を積極的に好きになり、
スーパーノーマルなものへのアンテナもビンッとなりました。
しかし、当時、スペシャルなものをつくるデザイナーにとっては賛否両論で、
普通について考える良い機会となったようです。
このスーパーノーマルを誤解してしまうのはとても危険です。
白い四角でいいんだ、丸でいいんだ、このフォントを使えば間違いないんだ、装飾無しがいいんだ、、、
そうではないのです。
スーパーノーマルの中には、
装飾があるものもありますし、ある意味スペシャルを目指したものもあります。
もちろん、これでいいんだ、という妥協的な考えはもってのほかで、
○○のために、○○なものを作る!という、熱い気持ちが最低限必要です。
そう。
結局、なんだかんだいって最後は気持ちかい!といわれそうですが、、、、最後は気持ちだい!
スペシャルがだめなのでもなく、装飾がだめなのでもない、
だめなのは、押し付けがましさや、自慢げないやらしさ。
デザイナーズナントカ、デザインしました!みたいなデザイン。
この難しい技術に、さらにあの技術ドン!みたいなデザイン。
ナントカ機能にナンチャラ機能あり!みたいなデザイン。
このいやらしさを人は敏感に感じているのだと思う。
「用の美」というのは、きっと、このいやらしさのない、純粋さなんじゃないか。
その人がその環境で考えて作った、より良く生きるための工夫。
そう、美しくなくても、見えてくる純粋なやさしい気持ちや楽しい気持ち、
その人間らしさに愛情を込めて考現学は調べて記録したのかな。
「純粋さ」が美しさやそれ以外も含めての魅力なんじゃないか。
それをデザインしたい。しかし、それを狙うというのは不純でいやらしい。。
そのためには、○○のために○○なものを作る!!というやらしさの入るスキの無い熱い気持ち。
最後は気持ちだい!
ダラダラと雑な文章をここまで読んでくれたかた、
ありがとうございます。
今日、隣の学芸員さんとお話して、考現学、民藝、スーパーノーマル、と、
3つの考え方に共通する魅力について思ったことの記録でした。
by hoknek
| 2011-08-08 23:26
| 日記